アーノルド

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1.まず,目に飛び込んでくる作品の全体感を味わいながら,書者名と書かれた言葉を確認します。
「ほほう。ずいぶんと豪快な(あるいは繊細な,厳しい,柔らかな等々)書きぶりだ。誰が書いたのだろうか。何と書いてあるのだろうか。」

2.次に書かれた言葉を反すうしながら,思いをめぐらします。
「この人はどういうつもりでこの言葉を書いたのだろうか。自分の作品に書く以上,この言葉には書者の考えや思い入れが込められているはずだ。こうした言葉を選んで書くというのはどういう考えを持った人なのだろう。」

3.そして筆順に従って,一点一画を丹念に追っていきます。
「ここのところの点画はなぜこういうふうに書かれているのだろうか。書者はどういう筆を用いて,どういう筆遣いをしているのだろうか。自分だったらこういう形に書くだろうか,書けるだろうか,書きたいと思うだろうか。」

4.点画が連なって形作られていく文字の姿を仔細に観察します。
 特に,意表を突いた字形や極端なにじみやかすれの表現があった場合は大いに楽しみながら悩みます。
「この字は普通にはこう書かれるはずだ,たいていの古典にはこのように書かれていて,それがいわば定石だ。しかし,ここでは全く別の形に書かれている。なぜだろう。」
「あえてこのような筆遣いをするというのはどういうつもりなのだろう。そのときの手の動きはどんなふうだろう。そのような手の動かし方をしているときに,書者は何を考えているのだろう。」
 あれこれと思いを巡らしながら,自分が持っている既成概念とのズレを楽しんでいるわけです。
「これは計算づくのけれん(受けねらい)か。恣意的なデフォルメか。筆の動きに振り回されて成り行き上こんな形になったものか。それとも書き進めていく中で展開された必然的なゆらぎか。やむにやまれぬ取り乱しか。書者の心の叫びがもたらした思いがけない破綻か。それを成功と見るか,失敗と見るか。」

 このあたりを見極めるには,こちら側にもある程度の知識と経験が必要です。見え透いたこけおどしに乗せられて,つまらない作品に高い評価を与えてしまったり,一見目立たないからといって,その中に秘められた輝きを見逃してしまったりしたときは,あとで忸怩たる思いに襲われます。そうしたところを高いレベルで判断できるかどうかが鑑賞者の資質として問われるところです。ただ,少なくとも,先生の手本の丸写しや,流行の書風の単なる真似事に過ぎないものなどはきちんと判別しなければなりません。

5.一通り見終わったところで,改めて自問します。
 このように思いを巡らしていくと,自ずから作品の裏側に書者の姿が透けて見えてきます。書の鑑賞においては,どうしても最後に書者の人間性を問題とするところに行き着いてしまいます。書の作品というものは,言葉とその書きぶり,そして書者の人格という三つの要素が不可分に絡み合った重層構造の中で表現が展開されているからです。

○書の鑑賞の深まり
 私が日常行っている書の鑑賞のプロセスはざっとこんなものです。
 それにしても私自身つくづく思うのは,書作品を前にして評価し,判断し,「この作品はこの点がこういう理由で優れている」と説明できる力,一言で言うと鑑賞眼はなかなか進まないものだということです。
しかし,多くの作品を目にしたり実作の経験を積み重ねることによって,それまで気がつかなかった微細な部分にも注意が行き届くようになり,ほんのちょっとした違いや特徴にも大きな驚きと感動を感じるようになったときは嬉しいものです。書の鑑賞の深まりとは,つまりそういうことなのだろうと思います。

画像は
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/2857/mini-jyouhou.htm
より